2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第11回 ジンベルグ・ヤコフ先生 6月26日 1/2
ロシア連邦における民族問題の本質:チェチェン戦争がなぜ勃発したのか
2005年4月にロシア連邦大統領が連邦議会に宛てた年次教書はプーチン大統領(当時)の政治理念を、もっとも豊かに表現する演説の一つで、特にソ連邦の崩壊は、20世紀最大の地政学的カタストロフィーであったという発言が有名になりました。それに比べればあまり知られてはいませんが、この演説には、ヨーロッパ中心主義の姿勢を明確に示すくだりがあります。ロシア社会が自由と正義を希求する歴史的背景に触れながら、プーチン大統領はロシアがいうまでもなく、過去・現在・未来にわたり、ヨーロッパ最大の国であると主張しています。しかもヨーロッパの文化が苦難の末に獲得した自由・人権・公正・民主主義の理念は、何世紀もの間、ロシアの社会にとっての指針となってきたと述べています。
プーチンのヨーロッパ中心主義は、ヨーロッパ文明と世界の歴史が蓄積してきたものすべてを、ロシアが活用しようとしているという発言にも表れています。この発言は、さらに国際社会におけるロシアの目的の一つの定義へと進み、ヨーロッパ大陸におけるロシア民族の啓蒙的使命は、これからも継続されなければならないというようにまとめられています。
大統領自身の言葉からも明らかなように、ヨーロッパの民主主義的価値観を広めることこそが、その啓蒙的使命の内容であるというふうに推測されるのであります。それに2003年の6月にプーチン大統領は、イギリス公式訪問の時にスコットランドの首都エディンバラを訪れ、そこで地元の政界そして実業界の代表と懇談しました。現地の新聞によりますと、この時プーチンは地元学生の質問に対し、次のような連続した発言があり、これは注目すべきものです。ロシアはヨーロッパの一部であり、この会場にいる一人として、ロシアがヨーロッパ文化の一画を担っていることを、疑うものはないと確信しています。それだけではありません。ロシアなしでは、ヨーロッパ文化は不完全なものになってしまうでしょう。そうであるならば、ロシアは紛れもないヨーロッパの一部なのです。さらに、このヨーロッパは、はるかウラルの山並みを越えて広がり、ロシア極東に住む人々は、ロシアのヨーロッパ部に住む人と変わりはないと述べています。つまり、アジアとヨーロッパの境界を、地理的なレベルからファンタジーのレベルに移した、大統領としてはいささか驚くような発言をしています。
啓蒙的使命という表現は、現代ロシア語にとって耳に慣れないこの表現であり、おそらく英語のシビライジング・ミッションか、そうでなければフランス語の表現からの直訳ではないかと思われます。実はフランスでは、19世紀末から20世紀初めにかけて、フランスによる植民地支配の基本原則を示すものとして、この啓蒙的使命という表現は初めて使われるようになりました。キリスト教への改宗をはじめとして、後進民族をヨーロッパ文明の恩恵に浴させることを意味していました。
このようなロシアの民族意識や極端なヨーロッパ中心主義は、どこから出てきているのでしょうか。それを解くために19世紀のロシアに戻ることにしましょう。19世紀のロシアで、ドストエフスキーをはじめとする知識人たちは、ロシアの後進性、貧しさをまのあたりにし、さらに国民自身が封建的な身分制度の檻に入ったまま、当然持っているべき権利についても、義務についても、そういうものがあることすら意識することなく、全体としてロシアの後進性を維持する役割を果たしていることに深い絶望感を持ちました。だからこそ、ドストエフスキーはラスコーリニコフに超人思想を語らせ、人間を天才と凡人にわけ、ナポレオンのような天才こそが、凡人であるにすぎない大多数の国民を支配し、幸せな未来に向かって導いていってやらなければならないという思想に、ロシアならではの存在感を与えたと思います。
ロシアという国を地図で見ると、東西に長く、その距離はおよそ1万キロメートルということです。現に西のモスクワと東の端にあるウラジオストクという南の町を絡んでいる、世界最長のトランス、シベリア鉄道は、9,500キロメートルを超えています。これを、実際に鉄道に乗って走ると一週間ほどかかりますし、また飛行機で飛べば10時間はかかるのであります。また西の端と東の端では、時差も7時間あります。例えば極東の町ハバロフスクで朝の8時だとすると、西のモスクワでは、まだ夜中の1時ということになります。この国土の半ばあたりにはウラル山脈があって、国土を東西あるいはヨーロッパとアジアに分けています。
ロシア連邦について見ると、単に国土の広さだけを取っても1,700万平方キロメートルぐらいで、これはアメリカ合衆国のほぼ2倍、日本と比べれば45倍の大きさになります。この国土の中に100を超える民族が、一つの国民として住んでいるのであります。こうした状況は、帝政ロシア時代も基本的な部分では変わりませんが、これにもう一つ帝政を頂点とする封建的な身分制が加わり、かつ国民の大部分が農民であるという条件が加わります。経済、産業などあらゆる面で、近代化が遅れていたということが言えます。19世紀に入りますとロシアの特殊性は、市民社会の欠如を一方で後進性と見て、西洋的な近代化を進めていこうとする知識人と、他方でそこにロシア社会の独自の価値を見出して、西洋の影響力を封じようとする考え方の2つが対立的に浮かび上がってきて、時代が進むに連れて社会を変革する動きと相まって、深刻な対立を生み出すことになります。その一方を西洋派、もう一つをスラブ民族からスラブ派と呼んでいます。
西洋派と呼ばれる人々が現れたのは、19世紀の40年代から50年代にかけてのことです。ロシアの封建的な身分制度が社会の発展を遅らせている原因と考え、ロシアの近代化を進め、西ヨーロッパにあるような近代的な市民社会を、ロシアにも誕生させようと考えたのです。しかし、もともとロシアを近代的な市民社会に、生まれ変わらせようという強い意志を持ち、これを強引に実行したのは、ピョートル大帝、ピョートル一世という皇帝です。