2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第11回 ジンベルグ・ヤコフ先生 6月26日 2/2
ロシア連邦における民族問題の本質:チェチェン戦争がなぜ勃発したのか
ピョートル大帝は1672年に生まれ、1682年から1725年まで、ロシアの皇帝として国を支配した人物です。ピョートル大帝は1672年に生まれ、1682年から1725年までロシアの皇帝として国を支配した人物です。この人はフョードル三世という皇帝の後を継いで、10歳のときに皇帝の位につきました。幼いころには、なくなった皇帝フョードル三世のお姉さんに当たるソフィアという女性が摂政として国を治めていましたので、ピョートル一世は当面政治とは関わることなく、都であったモスクワ郊外の宮殿に住んでいて、近くにあった外国人の居留地に出入りして、数学や大砲術、お城の建て方、つまり築城術、船の作り方、つまり造船技術などを学び、西欧の高度な技術を、身を持って学んでいきます。皇帝と呼ぶにはあまりにも行動的であったといえますが、ピョートル一世は1697年から1698年にかけて、「大使節団」の一員にくわわって、オランダやイギリスを訪れ、子供のころに関心を持った西欧の文明や技術を、さらに貪欲に吸収していきます。その吸収した技術の範囲は非常に広いもので、たとえばピョートル大帝は長靴を自分で作ったり、外科解剖や歯科の技術を身につけて、ためしに宮廷に仕える者たちの健康な歯まで、実験台にして抜いたりしたといいます。ちなみに、現在のロシアのサンクト・ペテルブルグにはクンスト・カーメラという博物館があって、ピョートル大帝が収集した珍しい動物の標本などが飾られていますが、それに混じって、ピョートル大帝が試しに抜いた廷臣たちの健康な歯が、いまも展示されています。またピョートル大帝は、西欧の窓としてみずからバルト海沿岸にサンクト・ペテルブルグという、いまお話した博物館のある町ですけれども、イタリヤやフランスから建築家たちを呼び集め、サンクト・ペテルブルグという町を純粋に西欧的な都市を建てて、 1712年これをロシアの新しい首都に定めますが、これもいままでのようなロシアの土臭さがぷんぷんとしているモスクワを嫌い、強引に近代化に突き進もうとするピョートル大帝の面目がよく発揮されたエピソードであると思います。ピョートル大帝の西欧志向は人々の外見にも及び、ロシア独特のひげを禁じ、伸ばした者からは税金をとることまでしました。
一方でピョートル大帝は、みずから斧を持って、樹を切り倒し、自分が住む別荘の建設にも加わったりしたといわれています。とにかく、いわゆる王様らしからぬ、非常に行動力のある人だったわけです。背も大きくて、2メートル4センチあったそうですが、なくなったのは52歳のときで、川で暗礁に乗り上げていた船から荷物を陸揚げするために、みずから川に入って荷物を引き揚げているうちに肺炎にかかったのが原因だといわれています。
本題にもどりますと、ピョートル大帝は学校制度や役人や軍将校の官等制度を導入したほか、各地に工場や造船所を建て、鉱山を開設するなど、政治面、産業面のいずれにも西欧的に機能する制度の導入を進めていきましたが、それは、たとえてみますと、幼い右も左も分からない子どもに、むりやり大人の格好をさせ、大人と同じように振る舞わせようとするのに似ています。西欧が時間をかけて、少しずつ進んできたプロセスを、知識を貪欲に吸収することによって、一気にしあげてしまおうという考え方は、明治維新後の日本の歩みにも共通するところがあります。事実日本でも明治維新後の一時期には、ピョートル大帝の改革を日本のモデルとする見方もありました。そうであるとすれば、ロシアでも国家の方針が定まらず、国が存亡の危機に見舞われたときなどには、決まってピョートル大帝の力強い改革が思い起こされ、あの改革こそが、ピョートル大帝のような強力な改革者がわが国には必要なのだという議論が起こってくるのも、当然といえば当然のことでしょう。
さて19世紀の40年代から50年代にかけて登場した西欧派はまさに、ピョートル大帝の西欧的改革を受け継いで、発展させることをめざしていました。西欧はロシア語では、「西」を意味する「ザーパド」を大文字で書きますが、西欧派という言葉は「ザーパドニキ」といいました。その代表的な思想家の名を挙げてみましょう。チャダーエフ、作家ではツルゲーネフ、アンネンコフ、ゴンチャロフ、ゲルツェン、オガリョフといった人たちです。このほかにも、もちろんたくさんの人たちがいます。こうした人々の考え方の基礎はどこにあったかといいますと、西欧、つまり西ヨーロッパをロシアにとっての理想の社会と見なし、そこですでに実現されているような個人の自由をロシアにも実現しようという志向にあったと思います。
こうした西ヨーロッパの理性にスラヴ派が対置させたのは、神に対する敬いの心です。スラヴ派は、ロシア正教こそがロシア精神の本質だと考え、このロシア正教に支えられた共同体こそがロシア社会のあるべき姿であり、このような共同体を回復することによって、個人の精神も内面の分裂という病から回復し、社会の精神と一体化して、健康な社会が生まれると主張しました。この考え方は、個人個人の思想、世界観の違いを前提とし、これを尊重する西欧市民社会の考え方とは根本的に異なるものです。その違いはまず、個人個人が神という絶対的な存在に自分の精神をゆだねるというものです。そこには個人の精神の独立はなく、絶対的な存在の意志を自分の意志とするという、ある意味では、「個人の意志の放棄」が特徴です。ロシア民衆の神への帰依、また皇帝に対する深い信仰から生れる無抵抗と寛容は、西欧派にとっては、ロシアの後進性を温存する、つまり社会の進歩を妨げる大きな原因であるのですが、スラヴ派にとっては、これが社会と個人の精神的一体性の維持に欠かせない要因であるのです。
ロシアの地政学的スタンスは、心理的な部分もそうなのですが、18世紀以来、西ヨーロッパの影響の下で形成された面が、非常に大きいと思います。ロシアが、自らの独自性を獲得しようと模索した背景には、ヨーロッパ文明との相互関係があったように思います。だからこそロシア帝国の東への拡大は、歴史的な使命であったという解釈がなされ、そして絶妙な発見であると評価されるのも、まれではありませんでした。このような緊張感こそがロシア人の民族意識を作り出し、今日においても、ソ連崩壊が生み出した思想の空白の中、相変わらず民族主義の一種として重要性を持っているのであります。