2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第12回 ジンベルグ・ヤコフ先生 7月03日 3/3
北方領土問題の行方:ソ連邦崩壊の効果を中心に
サハリン州議会は、さらに3カ月たった2001年9月に、ロシア連邦議会に対し、サハリン州の首都であるユジノサハリンスクという町で、1956年の日ソ共同宣言とロシア国家安全保障の諸問題について、移動下院公聴会を実施するよう求める決議を採択しました。モスクワにあるロシア下院が拒否した場合には、サハリン州議会で独自に公聴会を実施するとの立場を示しました。しかしこれに対する中央からの回答はなく、結局2001年9月、サハリン州議会は独自の公聴会を行いましたが、これには確かに中央の立法行政機関から関係者が出席しました。公聴会のために、日ソ共同宣言の幅広い分析を盛り込んだ38の報告が準備されたほか、提言文書とりわけ政府に対する提言では、日ソ共同宣言第9条の破棄に関する法案を作成して、ロシア下院に提出するか、サハリン州議会にこの作業を委ねるよう求めておりました。
サハリン州議会は、1956年の日ソ共同宣言第9条を巡って、ソ連最高会議が領土変更に関しては、連邦共和国の事前の了解を得るという、ソ連憲法ならびにロシア共和国憲法の規定に、違反して批准されたものだ、このように主張しています。憲法違反という非難には、国際的義務と国内基本法のような関係という複雑な問題があります。サハリン州議会の、この第9条破棄動議は実現せず、連邦政府関係者は州議会への批判を繰り返しました。しかしその一方で、サハリン州議会の提案に一部影響を受け、日ソ共同宣言が、法的文書として不完全ではないかと、懸念を持ち続ける政治家の数が増えていきます。しかし実際に日露外交を考えれば、例えばロシア外務省にとっては、このサハリン州の介入は一つの政治的な道具となり、また共同宣言そのものも、共同宣言の持つ特徴は、交渉のためのさまざまなオプションを提供してくれる、大切なポイントなのであります。
イルクーツク会談の前日、プーチン大統領は、NHKとのインタビューで、共同宣言はソ連最高会議で批准されているとして、宣言に基づく義務を認めましたが、その際、二島引き渡しに関する具体的な条件が書かれていないので、交渉は必要であると述べています。2001年3月25日、会談の成果についてプーチン大統領は、共同宣言の第9条について、今度は統一した理解を実現するには、両国の専門家による追加作業が必要であるとの立場を示しました。しかしその一方で、今度は2006年6月のG8諸国通信社幹部との会見で、その当時首相を務めていたプーチンは、突然、ロシアは島を引き渡すべきと考えたことは一度もない、共同宣言では確かに島の引き渡しをうたっているが、いかなる条件で誰の主張の下に行うのかは書かれていない、つまりまるで反対の発言もしているのであります。ここで表れてきたのが、領土問題の政治利用です。
冷戦は、まさにこの全人類を殺りくすることのできる核兵器が実際には使われないながらも、いつでも使える状態に置かれることによって、相手を威嚇し、相手に核兵器を使わせないようにする手段として、有効に働くような道具でした。二つの超大国はそれぞれの極を作って、安定した状態が次第に生まれました。米ソは戦後それぞれベトナム戦争、アフガニスタン戦争などという、世界にとっても自国にとっても重い傷となる戦争を引き起こし、それは冷戦状態をさらに固定化する役割を果たしました。それによって保たれた平和は、本当にすべての人類にとって、安らかな真の平和ではなく、常に一触即発の危険な綱渡りであったと言えます。戦後保たれてきた数十年の不戦状態が、いかに危ういものかを、冷戦終結後の今も改めて示しています。
そして北方領土の位置を確定したサンフランシスコ講和条約は、原子爆弾の投下と同じように冷戦がもたらしたものであります。講和条約は、調印に加わらなかった旧ソ連から日本を切り離す結果をもたらしました。そして中国は講和会議に結局招かれず、中国との講話が実現したのは1978年のことです。領土問題解決の最も積極的な方法は、冷戦のもたらした結果を広範にわたって再検討することであると、私は思います。具体的には情報を広く交換すること、今後は領土問題を政治化することなく、日本とロシアが共存する新しい環境を理解し、これを組み入れていくことなどが、考えられます。