2014年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第3回 青柳先生 9月29日 1/6
「命どう宝」の今昔―琉球生命観とその変貌
皆様こんにちは。本日はここ世田谷市民大学にお招きいただき、ありがとうございます。私は、今本務としている国士舘大学21世紀アジア学部に赴任した2003年よりも前の1990年頃から、特に「現代の大衆文化と若者文化」に注目しながら沖縄で現地調査を進めてきました。この講座のメインテーマとなる『生まれるアジア・老いるアジア』に絡めたツーパーツシリーズの本日は第一回目として、「“命どう宝”の今昔―琉球生命観とその変貌」と題するレクチャーを展開させていただこうと思います。生命を重んじる伝統を持つ沖縄において、そういった伝統が激しく変わりゆく社会情勢の渦中で、今現地に暮らす人々によってどのように捉えられ、その結果どのような暮らしが展開されているかを、私自身が実施してきたフィールドワークの中から掻い摘んで紹介していきたいと思います。しばらくおつき合いください。
沖縄では日本本土の人間を「ナイチャー(内地人)」とか「ヤマトンチュ(大和人)」と称して自分たちシマンチュ(島人)あるいはウチナンチュ(沖縄人)と区別してきた社会史的な事情があります。で、私自身はヤマトンチュで、ナイチームークー(内地婿)として沖縄本島に住んでおります。なので、ここで紹介する諸事情は、私が現地にある程度生活してきた「島ナイチャー」としての観点であることをまず断っておきたいと思います。というのも、この区別は様々な局面でとても重要な文化的意味を持ち、社会的兼学術的な効果を醸し出すことになるからです。まあ、それは追々説明させていただくとして、大筋では常々「部外者として自分は沖縄について何を語り、何をなしえるのか??」といった問題を脳裏に据えながら、文化人類学というフィールドに立った研究調査を、現地の縁者の方々と様々な形式で対話(ないし対立)しながら、調査を進めてきた次第です。こうしたスタンスから、今日は時間の許す限り「沖縄における“生”の社会的な意味と文化的な実践」についてみなさんと考察してみたいと思います。現地には古くから大切にされてきた「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」という言葉ないし概念があるので、これを窓口に話を進め、沖縄本島の北部に広がるヤンバル(山原)という地域で私が展開してきたフィールドワーク(現地調査)の一部をご紹介したいと思います。

「命どぅ宝」の起源と意義について

 さて、沖縄には「イクサユンシマチ、ミルクユンヤガテ、ナジクナヤゥシンカ、ヌチドゥタカラ(戦世ん済まち、弥勒世や軈てぃ、嘆くなやぅ臣下、命どぅ宝)」という名言が伝わっています。これは「琉球処分」という日本の対琉球植民地化政策によって1872年にそれまでの琉球王国が日本に併合され、時の国王である尚泰が「華族」という称号を与えられて東京に「拉致」される際、嘆く臣下たちをなだめて述べたとされる別れの言葉で、これが詩となり組踊りのセリフとなり、あるいは金言となって今に広く伝わっているものです。現地ではよく口ずさまれるこの標語も、単に口ずさまれるだけではなく、これに基づく人々の生活世界の構築が見てとれます。従ってここでは、これを現代沖縄の生活世界を捉えるひとつのキーコンセプト=生命観と見做し、生活世界の諸相を観ていきたいと思います。