2014年度 世田谷市民大学 連続講義


「生まれるアジア、老いるアジア」

第3回 青柳先生 9月29日 5/6
「命どう宝」の今昔―琉球生命観とその変貌
そして年末に行われる切支丹祭について最後に言及したいと思いますが、これはキリスト信仰とは直接関係あるわけではなく、新暦のクリスマスに合わせて行われてきたのが所以です。かつては広く行われたイベントのようですが、今は一部の集落にしか観られない貴重なもので、12月25日の夕べにメンバーが一同に公民館に会し、その年に生まれた子供たちを紹介して祝うというものです。先ず主役の子供たちが母親と共に前に並び、みんなが見守る中区長から順次祝福を受けます。そして区長より祝辞が述べられ、次いで父親のひとりが親を代表して挨拶して儀礼は終わります。その後はみんなで宴を楽しむという段取りですが、このようにして年毎に新たな命の誕生を記念していくのです。
ある長老との対話によれば、この切支丹祭は単に新生児を祝うのではなく、忘年の意味合いが強いということです:つまり、年の瀬にその年の功労を集ったみんなでねぎらい合い、そこに新たな命の旋風を吹き込むことで村に「年越しの嘉利をつける」という願いが込められているということです。
 こうして観てきた年中行事の社会的な意味合いを私なりに整理してみると、次のようにまとめられると考えています: こうしてみると、年中行事を通して「命の営み」が絶え間なく共同体のメンバー間で確認され、共有され続ける態勢が確立していることがわかります。...ちなみに、カーウガンと切支丹祭が新暦で行われるということには、現代のライフスタイルに現地の人々がよく適応している様子が示されていると私は解釈しています:即ち、この二つの重要な節目行事=年初めと年の瀬を記念する儀礼は、現代社会に生きる集落のメンバーが仕事のペースに追われてもなお休暇で戻れるタイミングによって行われるよう配慮された結果だと思うのです。この点はしかし、私の方から指摘してみて初めて現地のインフォーマント(情報提供者)がうなずくという事態でして、残念ながら「誘導質問」の枠外でその真意が確認されたわけではありません 。
そしてこれらの行事は、現地のインフォーマント(特に社会経験を持つ先輩格の成人たち)との雑談の中で度々耳にする「生々流転」という概念によく当てはまると私は考えています。日本本土では往々にして「起承転結」というくくりで物事の進展が計られますが、「生々流転」はこの「起承転結」に類似しながらも、より生命感に満ちた枠組みであることが聴き取り調査からも理解できます:地元で売店を経営する40代の成人会リーダーの言葉を借りれば、それは「生まれ来る命の健やかな成長を仲間たちみんなで見守っていくスタンス」だということになります。
年中行事によって刻まれる生々流転は年毎のサイクルを成し、これが重なっていくことでライフサイクルが形成されていく。そしてこのライフサイクルは、先祖のライフサイクルに連なり、一つの世代から次世代へと命がつながれていく:これが、私が現地調査から得た「命どぅ宝」というプリンシプルのローカルな温存を可能にするパラダイムです。