2014年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第4回 青柳先生 12月22日 5/10
死者は海の彼方へ―ニライカナイの時空
前回、年中行事の話の中でちらっとご紹介した「シーミー」(清明祭)は、部落によってその実施日に多少のばらつきはあるものの、旧暦で立春が過ぎて穀雨の季節が到来する頃=即ち陽暦でいえば4月の初めに概ね執り行われます:お墓の前に親族が集まって祖先の霊を迎え、宴席で親族によって絆が再確認され、その年の豊穣と家内安全が願われる供養の儀と解釈することができます。イチミにしてみれば、こうした儀礼を通してニライカナイより祖霊によって加護と恵みがもたらされるのですね。
進化人類学という分野で2000年の6月に行われた『死の歴史と進化』という興味深いシンポジウムにおいて『死の意味領域』という題目で発表された東京外国語大学の内堀基光氏は、この発表の前置きの部分で「他者の死」あるいは「愛する者の死」という一大事が基本的には残された者の問題(英語でいうbereavement=「死別問題」)であることを指摘しています:即ち、「死」を通して大切な人と決別した親族(残されし者たち)が、決別に伴う心理(トラウマやメランコリーといった心情)とどう向き合うかという問題なのだとおっしゃっています。先に紹介したサーリンズの理論をここに応用するならば、葬儀やこの清明祭といった供養行事は、生者たちがニライ門に立って心を整理し、自分たちの身辺を構成し直す場になり得ると考えられましょう。生きている親族の間で祖霊をしっかりと受け継ぎ、共有し、記憶し、それとの絆に感謝し、命の源を再認識しながら、移りゆく時代の流れに適応している地元の人々の態度が、こうした「異世界との接触点」に観ることができる訳です。
ところで、かつては下記のような『涅槃経諸行無常偈』という仏典を引用した熟語の連詞が供養の儀(特に葬儀)において唱えられたそうです:

琉球神道と相まって、こうした詞は世の移り変わりの激しさを示すと共に、これに惑わされない楽土としての二ライをも示唆し、唱える者たちに沖縄世界観の二重性を再認識させたと考えてもよろしいかも知れません。