2014年度 世田谷市民大学 連続講義


「生まれるアジア、老いるアジア」

第5回 関谷先生 10月20日 4/5
老若男女が楽しむ中華圏のポップス
「ずる賢い二人のスター」という曲です。ロックバンドをやってきた人という感じのサウンドが、ちょっと古い感じながらも何となく感じていただけると思います。
この映画は日本では『Mr.BOOギャンブル大将』というタイトルで公開されました。  
歌詞もいい加減な面白さがあって、「食べるなら何でもする。たまたまギャンブルですって落ち込んでも意味ない。金もうけしたい。人をだましても。ずる賢い二人のスター。腕前は一流だ」という、庶民的の心を歌っているんですね。
サミュエル・ホイは、香港大学を卒業したエリートなんですけれども、庶民の人たちの気持ちを広東語で歌って人気が出ました。サム・ホイはいまだに香港でもコンサートをやっていて、チケットはあっという間にソールドアウトになりますから、彼はいまだ香港の人たちの心なんだと思います。
香港のポップスは、この当時から90年代返還何年か前ぐらいまでは非常に進んでいて、他のどこの中華圏にもないような洗練された音楽を作っていました。なおかつ本当に華やかなコンサートを作っていましたので、まさにこの時代からちょうど80年代、90年代前半ぐらいまでは香港が中華圏エンタテインメントの中心でした。
しかし、1996年に中国に返還されました。その前あたりから不安な気持ち、それから中国のパスポートじゃないパスポートが欲しいという人たちがいて、そういう人たちは海外に行ってしまうということがあって、返還前後からポップスシーンは落ち込んでしまいました。同時に、いまだ古いアーティストが大変な人気です。ちょこちょこロックバンドを学生たちが作ったりというのはあるんですけれども、香港独自の若い音楽が中華圏を席巻しているということはないです。
香港でもう1曲ご紹介をしましょう。1993年の曲です。香港で唯一成功したロックバンド、BEYONDというバンドをご紹介します。このバンドのボーカルであり曲も作っていた黄家駒(ウォン・ガークイ)という人は、香港の音楽の良心と言われました。Beyondは香港や中華圏では確固たる地位を築いていたんですが、もっと大きくなりたいということで、日本に来たんですね。日本のマネジメント会社と契約をして、日本に住んで活動を始めました。で、やはり知名度を上げないとということで、テレビのバラエティ番組に出演することになって、その収録の第1回目に事故が起き、黄家駒は亡くなってしまいました。香港の人たちは本当に悲しみました。そして、香港の人たちは偉いなと思ったのですが、こう考えたのです。なぜ私たち香港人はBEYONDを日本にやらなくちゃいけなかったのか、彼らの音楽の個性を大切にしなかったからだ、ということを考えたんですね。
Beyondもサミュエル・ホイも自作自演のアーティストでした。が、ほとんどの歌手はいわゆるポップシンガーなので、プロの作曲家が作ったものを歌っていました。ですので、これからは香港オリジナルをもっと大切にしようという動きが出て、それであるラジオ局はメイド・イン・香港の曲を半分以上かけることなんていう決まりを作りました。
そのBEYONDの代表曲が、今回のデモで、若い人たちに歌われています。「海闊天空」という曲です。「僕は今、寒い夜の中、降り続く雪を見ている。遠くさまよう凍った心を抱きながら、風の中、君の姿を追いかけるけど、霧で影も見えなくなって、この空と海との間で僕らは変わることができるだろうか」というような、読んでいるだけで涙が出そうな歌詞です。

(視聴)

心にしみるいいメロディですね。これ1993年の曲なので、今のデモをしている学生は知らないはずなのに、何故これを誰が歌い始めたんだというのは日本の古い香港ポップスファンも思っていて、昔からこの曲知っている人はすごくびっくりしました。この曲は、香港の心なんだろうと思います。黄家駒が亡くなった年の曲です。

台湾のお話にいきます。
台湾でポピュラー音楽がスタートした20世紀最初、台湾は日本の統治下にありました。第2次世界大戦で日本が敗戦するまで、台湾を50年間日本は統治していました。そういう中で台湾のポップスが生まれたのは、1920年代です。
最初に台湾ポップスの大ヒット曲が生まれたのは、「桃の花悲恋物語」と勝手につけたんですけれども、この上海映画が台湾で公開されるときの宣伝曲として作られたものです。台湾語で作られました。蒋介石が台湾に行ってからは、中国の標準語、北京語を強要しましたので、その前から台湾の人が使っていたのが台湾語です。今でも台湾では多くの人が理解します。