2014年度 世田谷市民大学 連続講義


「生まれるアジア、老いるアジア」

第6回 関谷先生 10月27日 1/5
30年以上トップでい続けるアジアの歌手たち
皆様、こんにちは。先週の続きで台湾ポップスの歴史をご紹介したいと思います。
今日は、「望春風(バンチュンホン)」という曲から行きたいと思います。1930年代の台湾は日本の統治下にありましたが、日本政府が民謡、伝統音楽を禁止したので、新しいポップスを作らなくてはいけなくなりました。日本のレコード会社が台湾に支社も置きましたので、新しいポップスが生まれることになったわけです。
そしてその1930年代が、台湾語のポップスの黄金期です。蒋介石の国民党が台湾に来る前、多くの人が使っていた言葉が台湾語。ちなみに蒋介石の国民党は中国で毛沢東に負けて台湾に来た後、彼らが使っている中国の標準語、日本では北京語といいますが、北京語を押し付けていくんですね。ですから、当然ポップスも台湾語ポップスは弾圧されていくので、結果この1930年代というのが台湾語のポップスの最高に盛り上がった時期と言えるのです。
その中の代表的な曲が「望春風」。歌っているのは、先週も聞いていただきました、この時代の売れっ子歌手、純純(チュン・チュン)です。

(視聴)

スチールギターが聞こえてハワイアンな感じもしますね。1933年の曲。作曲したのが、鄧雨賢(テン・ユイシン)。台湾ポップスの父と言われています。客家人。学校で台湾語を勉強し、その後1929年に日本に留学します。日本の音楽学校で西洋音楽を習いました。その1929年というのは佐藤千夜子の「東京行進曲」が大ヒットした年で、ジャズが日本を席巻したときでもありました。そういう時代に鄧さんは日本に行って台湾に戻ってきてこの曲を作りました。私、つい最近台湾の仲のいい友達が日本に来たので聞かせたら、「え? これ日本人の作曲じゃないの?」なんて言われたくらいです。彼女にとっては日本的な香りがしたのでしょう。
そして、この曲「望春風」を台湾の若いアーティストがカバーしているんです。すごく格好いいので聞いてください。

(視聴)

若い方たちがモダンにアレンジしたものです。いわゆるR&B的というか黒人音楽風にしていますね。ボーカルをとっているのが陶喆(テイヴィッド・タオ)。台湾人ですが、十代でアメリカに行きUCLAの大学院を出た、非常に才能のある人。このデイヴィッド・タオがプロデュースしたボーカルチームがTENSIONという、今はないのですが、一緒に歌っています。こういうふうに中華の若い人たちはよく古い曲をカバーしてリスペクトしているんです。私はとても素敵なことだとと思います。
その後の台湾ですが、政治的に揺れ動いてゆきます。70年代には中国がアメリカや日本と国交を回復し国連に加入し、台湾の位置は微妙になってゆきます。しかし一方、ベトナム戦争の時には基地が台湾にあり、経済的には順調です。ポップスと音楽産業も成長してゆきます。
70年代になると、今度はフォークソングのブームが来ます。アメリカではボブ・ディランなど社会問題を歌にするシンガーソングライターが人気を博しました。日本でも吉田拓郎とか岡林信康といった方たちがいましたね。台湾にも70年代そういう音楽がありました。
そして87年に台湾は戒厳令を解除します。民主化が始まります。若い人たちが音楽で自分の好きなことを表現できる時代になった。そこから台湾ポップスが盛り上がりました。政府による歌詞の検閲もなくなりました。皆が言いたいことを言える時代になりました。
台湾には原住民、中国語だとユエンチュウミンという発音ですが、台湾に漢民族が来るもっと前からいた人たちが人口の2%だけですがいるんです。元々ポリネシアのほうから来たと言われていて、だから少し肌も黒くて目鼻立ちもはっきりしています。彼らは素晴らしい音楽を持っている、豊かな文化を持っている。この原住民の人たちの文化をリスペクトしようという動きも出てきます。
今は中国で大活躍している主流のポップスで大活躍している原住民の歌手もいますが、Difangをご紹介しましょう。中国語名は、郭英男。この方は原住民の中の一番大きなアミ族の長老でいらっしゃいました。ポップスの歌手ではなくて、生活の中で歌を歌ってきました。原住民の人たちにとって音楽は欠かせないものです。
ある時、ドイツのエニグマというグループが、Difangさんの声とは知らず、アフリカ人たちがやっているコーラスかなと思って、いわゆるサンプリングといいますが、Difangの音楽を取り入れて曲を作ったんです。なおかつそれが96年のアトランタオリンピックの宣伝歌になってしまった。その曲によってDifangはとても有名な人になりました。聞いてみましょう。

(視聴)